るいしょうは さんじゅうろっけん まゆみかじ
「真弓火事(まゆみかじ)」は、江戸時代の後期に関宿であった大火です。
「真弓火事」は、文政八年(1823)3月28日の夜、中町四番町の北側にあった宿場役人真弓休四郎宅から出火し、東海道を挟んで南北36軒に類焼して火元を含む37軒が全焼し、4軒が半焼、崩し家3軒、屋根通り取り崩し家2軒を含む45軒(火元を含めると46軒)の被害がありました。
真弓火事を記録した絵図によると、被災家屋は火元と軒を連ねる東西、そして街道を挟んだ南側にも広がっています。特に、火元東側での類焼が多くなっているのは、3月のことですから鈴鹿山系から吹き下ろす西風が影響したのかもしれません。
当時は、水を大量に使用できる水道や消火用設備が整っておらず、延焼の恐れのある建物を取り壊して燃えるものを取り払う“破壊消火(はかいしょうか)”が主な消火方法でした。火事の記録に「崩し家」や「屋根通り取り崩し家」とあるのは、この破壊消火によるものと考えられます。
宿場ではたびたび火事が発生しました。住民の数以上の多くの旅人が宿泊し、その食事の用意や暖をとるためなどに日々火が使われていたためです。幸いにして、真弓火事以降、関宿では大火は発生していません。関宿に暮らした人々は、日々火への注意を怠らなかったと思われますが、大火に名前を付け語り継ぐことで永い戒めとしてきたのでしょう。
消防体制や消防設備が整った現代であっても、火事は関宿のような古い町並みにとって一番恐ろしいものです。 長い年月をかけて大切に守り伝えてきたものが、一瞬にして灰になってしまうからです。
火事の恐ろしさだけは、しっかりと語り継いでいかなければなりません。
そこで、「続く七七」は、
「大火は町の 一番の敵」
(たいかはまちの いちばんのてき)です。
「『関宿かるた』続く七七」
「類焼は 三十六軒 真弓火事
大火は町の 一番の敵」