の「のんびりと 旅人休む 一里塚」

(のんびりと たびびとやすむ いちりづか)

 “一里塚”は、街道を旅する人々の距離の目安として、一里ごとに設けられた塚(土を盛ったもの)です。東海道の一里塚は、徳川家康が街道を整えるために作らせたものです。

 一里塚は街道の両側に、高さ1.7m程土を盛り、その上に榎などの樹木を植えました。樹木はやがて大きく育ち、その木陰が旅人の絶好の休息場所になりました。

 関宿に一番近い一里塚は、宿の東の入口東追分にありました。ここから峠に向かって(西)は、さらに2つの一里塚があり、亀山宿に向かっては(東)は「野村一里塚」がありました。

 一里塚は街道の両側に作られていたため、道の拡幅などで取り壊されていることが多いのですが、「野村一里塚」は道の北側にあった塚が今でも残っており、国の史跡に指定され大切に保存されています。

 東海道は江戸日本橋(えどにほんばし)から京三条大橋(きょうさんじょうおおはし)の間、125里余(約500キロメートル)ありました。江戸から京に向かう旅人は、14~15泊を必要としました。一日に歩く距離はおおよそ8里~10里(30~40キロメートル)です。1時間に4キロメートル程歩くとしても、8~10時間は歩き続けなければなりません。一里塚は、旅人にとって本当にありがたいものだったでしょう。

 さて、一里塚は一里おきに設けられたため、125里余の東海道全体では、124の一里塚があったことになります。

 ただ、宮(熱田)宿(愛知県名古屋市)と桑名宿(三重県桑名市)の間の約7里は、木曽三川の河口部で海の上を東海道が通っていました。 この間は渡し船で移動するため「七里の渡し」(しちりのわたし)と呼ばれています。もちろん、海の上には一里塚はありません。旅人は、4~5時間は渡し船にゆられながら、船頭任せの船の旅をしました。

絵札 関宿東追分にあった一里塚

そこで「続く七七」は、
「東海道に 百二十四」
(とうかいどうに ひゃくにじゅうよん)です。


『関宿かるた』続く七七

「のんびりと 旅人休む 一里塚
  東海道に 百二十四」