け「慶長に 宿駅決まる 関地蔵」

けいちょうに しゅくえききまる せきじぞう

 「慶長(けいちょう)」は江戸時代最初の元号で、西暦では1596年から1615年の間です。天下分け目となった”関ケ原の合戦”は慶長5年(1600)、徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いたのは慶長8年(1603)のことです。

 「宿駅(しゅくえき)」は、旅人が休泊するとともに、荷物を運搬する人や牛馬を中継ぎするために整えられた街道の要所で、「宿場(しゅくば)」「宿(しゅく)」とも言います。

 東海道五十三次の整備は、慶長6年(1601)、徳川家康が各宿場の代表者に「伝馬朱印状(でんましゅいんじょう)」を渡すことから始まりました。

 この「伝馬朱印状」には、「この朱印がなければ、伝馬を出してはならない」の内容が書かれており、徳川家の正式な文書である事の証として「馬と馬子」の印が押されていました(この朱印は「駒引朱印(こまひきしゅいん)」と呼ばれています)。

 「駒引朱印」は、旅行者にとっては伝馬の使用を許された証であり、一方、伝馬を出す宿場にとっては公式な宿場である事の証であったわけす。このことから、
関宿が東海道の「宿駅(宿場)」になったのは、「駒引朱印」が押された伝馬朱印状が徳川家康から渡された慶長6年(1601)ということになります。

 さて、徳川家康から関宿に渡された「伝馬朱印状」には、関宿のことが「関地蔵」と記されています。関宿は天正年間に関盛信によって町建てが行われたとされていますが、その当時は地蔵院を中心とした小集落であったと考えられています。当時関宿は「関地蔵(せきじぞう)」と呼ばれていたのです。

 徳川家康は慶長8年(1603)には各街道に松並木や一里塚を造らせるなど街道の整備を進めていきます。関宿も東海道の整備が進むにつれ発展し、1650年頃には現在のような規模にまで発展したようです。

絵札 関地蔵院の地蔵さま

そこで、「続く七七」は、
「伝馬の許し 駒引朱印」
(でんまのゆるし こまひきしゅいん)です。


『関宿かるた』続く七七

「慶長に 宿駅決まる 関地蔵
 伝馬の許し 駒引朱印」



さらに詳しくお知りになりたい方は、
「“関宿”まちなみ・町家暮らし」へ。
「関宿の始まりが景観に」



「“関宿”まちなみ・町家暮らし」
「寺々の立地年代に宿場の発展を読み解くヒントあり」